阿保親王塚

芦屋市に所在。

円墳で、約36メートル、高さ約3メートル。

4世紀の築造とされており、

阿保親王の時代にはあわない。

現在宮内庁管理の下、毎年12月の命日には正辰祭が行われている。

正面にある4対の石燈籠は長州藩主毛利候の寄進とされているが、

うち一対が阪神大震災によって失われている。

 


 

阿保親王は(西暦792〜842)平城天皇の第一子である。

父である平城上皇が平城京遷都により、嵯峨天皇との対立が起こり、

起死回生を狙った武家の藤原仲成と薬子と手を結び、

起こした「薬子の乱」により、大宰府へ左遷されることになる。

なお、この乱で、平城上皇は出家、仲成は殺され、薬子は自殺し、

そのとき、阿保親王の弟の高岳親王は皇太子を廃される。

21歳くらいのことであると推定されている。

そこから約14年、大宰府で過ごすことになる。


阿保親王の子供で有名な在原業平がいるが、

業平は桓武天皇の内親王、伊都内親王との間に生まれた第五子とされている。

しかし、この内親王は平城天皇の後宮にいたという説もあり、

業平の母親説は疑問視されている部分もある。


嵯峨天皇が皇太子大伴親王に譲位し、淳和天皇が即位する。

平城上皇が崩御し、長い大宰府での生活から京へ帰ってくる。

平安時代の怨霊思想から、平城上皇の怨念が淳和天皇を呪わないように

という配慮からの栄転であったと見られている。

帰京した阿保親王は子供に王を名乗ることをやめ、在原姓を名乗り、

反逆の意がないことを示す。


仁明天皇の御代、嵯峨上皇が崩御する。

当時の皇太子恒貞親王を奉じて謀反が起こる。

「承和の変」である。

しかし、嵯峨上皇崩御前にこの企てを阿保親王はもちかけられるが、

密かに書にしたため、嵯峨上皇后に送り、

このことによって、謀反が発覚し、皇太子は廃され、

皇太子を取り巻く人物は流刑、中心人物は大宰府に左遷される。

阿保親王は「承和の変」の約3ヵ月後、51歳でその生涯を終える。


阿保親王塚が芦屋にあるのは、子の在原業平がこの土地を愛したからといわれている。

芦屋に関係の深い「伊勢物語」が有名である。

芦屋に別荘もあったと伝えられ、

業平橋の辺りが別荘址といわれている。

業平町という地名も現在も残っている。

なお、阿保親王塚は芦屋のほかに、三重県青山町と、大阪府松原市にも所在する。

しかし、松原にある阿保親王塚は、垂仁天皇第9皇子、息速別命である。

姉に有名な日本武尊のおばといわれる倭姫命がいる。

青山町の阿保親王塚は「あぼ」と読まず「あお」と読む。

 

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〜編集後記〜
芦屋神社から山の手を登り、古墳群があるところへいったが、
地図にも書いてあり、そこだという確証もあったのに、
四方が全部フェンスに覆われており、入ることができなかった。
立て看板も、鍵がついている部分もなかったため、
見学用には整備されていないのである。
また例のごとく、周りが高級住宅街ではさまれているため、
フェンスを乗り越えて見学する勇気がなかった。
あきらめてバスに乗り、山を下りJR芦屋へ向かう。
駅付近は大掛かりな道路工事をしていた。
阿保親王塚へは途中下車しないといけなかったのに、
終点の芦屋駅まで乗ってしまった。
駅で一息ついて少し山を登る。
阿保親王塚も例にもれず全体を拝めなかった。
下校中の小学生に
「何とってるん?」って話しかけられる。
確かに毎日通ってるこんな不思議な入れない公園のようなものを
わざわざ撮っていたら疑問やわ。
いっちょ講義でも始めたろかとも思ったが、
実はこの時代あまり詳しくない。
突っ込まれたら終わりなので、やめといた。
一応アップするにあたって阿保親王とその時代を
勉強してみたが、なにか間違っていたら教えてください。
・・あ〜嵯峨天皇ぐらいがギリっす。まじで☆