河内王の墓(匂金まがりかね陵)
福岡県田川郡香春(かわら)町所在。
香春町は太宰府への通り道として、官道「田河道」として栄えた町である。
国道201号線の田園風景の中にひときわ目立つ鳥居があり、
作家五木寛之『青春の門』にも登場する香春岳をバックに鏡山神社がある。
この神社は神功皇后が鏡を奉った山とも言われているが、確かではない。
神社の長い階段の手前に左に向かう小道がある。
その先にあるのが河内王の墓と呼ばれ、
明治27年陵墓指定を受ける、勾金陵がある。
河内王とは持統三年(689)筑紫太宰府として就任し、なくなった皇族の墓とされている。
一説には天武天皇の皇子、長皇子の子供である、川内皇子と言われている。
付近には河内王の妻であるといわれている手持皇女の歌碑が建っている。
石戸破る手 力もがも手 弱き女にしあれば術の知らなく
〜み墓の石の戸を破り、河内王を呼び戻したいが、か弱い女の手であるのでその術がない〜
王の親魄逢へや豊国の 鏡の山を宮とさだむる
〜なつかしい御心によほど叶ったのだろうか、あの豊国の鏡の山を墓所と定めなさったのは〜
豊国の鏡の山に石戸立て 隠れにけらし待てど来まさず
〜河内王は豊国の鏡山のお墓に石戸を立ててこもってしまったらしい。いくら待ってももう帰って来られない〜
近くに三基ほど古墳が確認されているが、地元の人の話では、
こちらのうちのどれかが河内王の墓であると言う。
また手持皇女の墓もあるという。
勾金陵となぜつけられたのかは謎だが、勾金というのは、
この地一帯の昔からの地名であるが、有名なところで、安閑天皇の宮、
勾金橋宮という名前が出てくる。
安閑天皇は継体天皇の第一子で、
匂大兄廣国押武金日天皇(まかりのおおえひろくにおしたけかねひのすめらみこと)と言う。
伝承ではあるが、安閑天皇と結びつける説も多い。
現在墳丘はフェンスで囲われ、綺麗な芝状態である。
木が何本か繁っており、露出した石室の一部かと思われる石が確認できる。
〜編集後記〜
大分へ行く道の途中で見つけた古墳。
高速から降りる予定でないところで降りたため、
全く予備知識がなく、いそいで地図を見て、
近くに古墳がないかを探したが、あいにく観光用の地図で載ってなかった。
大きな鳥居が目に入り、その横へ続く道がどうも「におった」。
相方との旅行のため、一つだけ、
見やすくて、古墳とわかるところなら行っていいと許可が出たので、
この鳥居にすべてをかけた。
(なんせ時間も猶予なかったので)
読みどおり古墳があったときは私天才?!って思ってしまった(笑)
陵墓参考地であったが、墳丘自体は小さく、肉眼で見える石も露出していた。
九州で河内という言葉を耳にするとは、といった感じ。
時間がなかったため、いそいで鏡山神社を上がっていったが何もなかった。
後で調べてみると、なかなか伝承のある神社であることが判明。
残念。もっとゆっくり見たかった。
この先に飯塚と言う地名もあり、古墳がたくさんありそうな感じであった。