幣塚古墳
ぬさつか古墳と読む。
記録には調査が行われた古墳と記されているが、
現在は住宅街に囲まれて一角のみ見ることができる。
立て札などはなく、古墳であるとはわかりづらいが、
急勾配にあり、全体はおろか、墳頂を見ることはできない。
坂の下から。すみません、撮影限界です★
調査によると、市内最大級の円墳で、直径34メートル、
高さ4メートル。
南側には幅約7メートル、深さ約1メートルの周濠が確認されている。
墳丘には円礫が葺かれており、円筒埴輪片、形象埴輪片が出土。
裾部からも1・8メートル間隔で20個、円筒埴輪と朝顔形埴輪が出土している。
この古墳には古い記録があり、
『明石史資料』によると、明治の頃、
三年間続いた旱魃、風害、水害の凶作で困った人々が
古墳や塚などによくある「金鶏伝説」にならって、
幣塚を約2・4メートルほど掘り下げた。
しかし金の鶏は出てこず、村の救世主にはならなかったという。
このとき発見された遺物については
「扁平な一尺許りの割石状の石で精巧な石室が作られていた」
「勾玉管玉小玉が百個ばかりと刀の腐敗したもの一個」
と記されている。
現在この出土品がどこにあるかはわかっていない。
なおこの明治の発掘により散乱していた石室の石材は明石産ではないことが
調査の結果わかっている。
竪穴式石室、埴輪のつくりから、この古墳は四世紀後半から五世紀のはじめの築造とされている。
なおこの少し先に行った池の間にちいさな盛り土がある。
あ!開口してる?
残念!ただの階段でした・。
幣塚はてっきりこちらのほうだと思っていたが、
古墳でもなんでもないようである。
でも不自然な盛り土である。
〜編集後記〜
この池にあるところに最初に行って
遠めで「あ!!開口してる!!」って思ってメッチャ
浮かれてたのに古墳ですらなかったなんて・・
その日のうちに図書館で明石の史跡を調べまくったが
記録にはなかった・・
幣塚には呆然とした。
この一角以外は隙間なく民家になっており、
全体を臨める(全体ではないけど・・)場所は
一方向のみ。
フェンス登って行こうかなとも考えたけど、
写真で見るよりすごい急勾配の場所で
高さが三メートルくらいになる。
登ったところで石は露出していないようであった。
(途中まで登って確認した)
まだ破壊されないだけましだったかな。
でも看板くらいつけてほしい、せっかくの史跡やねんから。
(2003年10月訪)