聖陵山古墳
加古川市野口町所在。
昔別府鉄道が通っていた頃の名残、
山陽電車別府駅から続く線路をたどると、
途中明姫幹線によって中断されるものの、
すすんでいくと丁度二個目の駅、
その名も円長寺駅のあったところに
聖陵山古墳はある。
円長寺。前方部は向かって右側にある。
古墳時代前期の築造と思われる前方後円墳であるが、
早い時期から前方部は土取りされ、
後円部は江戸時代に盗掘を受けている。
また、太平洋戦争の時代には破壊され、
その跡地に現在円長寺が建っている。
残された前方部は独立した円墳のようになっているが、
土とりされていなければなかなかの大きさであったように思われる。
全長約78メートル、後円部径約45メートル、高さ約6メートル。
円長寺においてある石棺石は、聖陵山古墳から出土したもので、
以前は橋として使われていたものをもってきたものである。
組み合わせ式石棺である。
そのほかの出土品として銅鏃13本、石箱などが伝えられている。
このすぐ先に国宝鶴林寺(かくりんじ)がある。
聖陵山古墳とは直接関係の内容に思われるが、
聖徳太子ゆかりの寺、国宝なので紹介させていただく。
蘇我物部の争いをさけるために、高句麗の僧、恵便(えべん)
はこの地で身を隠していたが、聖徳太子は恵便の教えを請うために
わざわざこの地を訪れたという。
聖徳太子が訪れた伝承として残っているのが、
「不開の門跡」として今も残っている。
塀の一部がへこんでおり、
急に聖徳太子が来たことであわてた住民はそこに急遽庵を作ったという。
なぜこの塀の部分に造ったかという謎はいまだ残っているが、
名前の由来は、太子が帰った後、門が閉じて朽ちてしまったからだという。
またこの土地は秦川勝(はたのかわかつ)である。
その後、刀田山四天王寺聖霊院となずけられた。
今もなお、刀田山 鶴林寺とよばれている理由である。
その後、「身人部春則」(むとべはるのり)が七堂伽藍を建立。
鳥羽上皇により、現在の[鶴林寺]の寺号となる。
この寺名の由来は、本堂前の庭の菩提樹と沙羅の木が、釈迦入滅のときに、
まるで鶴の羽のように真っ白に枯れたというところからきている。
小さいながら重文に指定されている。
なお、寺であるのに神社にある鳥居がある。
もともと日吉権現を祭っていたが、明治に出された、[神仏分離令]
により、現在は役行者をまつり、鳥居だけは残っている状態である。
播磨地方にあったとされる寺は9世紀にあった大地震で崩壊している。
鶴林寺も崩壊した可能性が高いが、
建築は平安時代より前期と見られている。
また、戦国時代には信長・秀吉の宗教弾圧により
かなり荒廃する。
供養などが行われる常行堂の下から解体修理の際
30個もの頭蓋骨が発見された。
この頭蓋骨は戦国時代に起こった戦の秀吉軍の犠牲者を弔ったものとされている。
なお、頭蓋骨は現在も埋め戻されて常行堂の下にある。
庭に小さな石棺がある。
鶴林寺ではこの時代の遺構は発見されていないため、
どこかの古墳から出土したものを持ってきたものと思われる。